大好きな高校教員を辞めました。新たなステージに立ちます!(前編)

こんにちは、みどり(@hiju39)です。

先月、人生で大きな変化がありました。
4年間務めた、観光専門高校での教員の職を辞したのです。

すでに新しい人生を歩み始めています。
今回は、教員を辞めたわけと、今何を目指して何をしているのか、を書いていきます。

じゃ~、いってみよ~。

とても楽しかった教員の仕事

私が高校教員の職についたのは、偶然の出来事からでした。
教員になろうと思ってなったわけではありません。

ですが、この4年間、かわいい生徒たちと頼りになる同僚の先生方に恵まれて、日々楽しく働くことができました。

思えば私、小学生の頃は「将来の夢は学校の先生」って言ってたんですよねぇ。だけど、中学校でこれを撤回。なぜって、教員が生徒に殴られる・どつかれるのをたびたび目にしていたからです。

「こっわー。学校の先生ってこんなことされんの?」

私の通った中学校は時代背景も手伝って、荒れに荒れていました。長ラン(ながーい丈の学ラン)・金髪・喫煙、窓ガラスが割られる、万引きする、校内をバイクで走る、他校の生徒と乱闘する、先生は竹刀をもって仁王立ちしている…と、そんなところでした。

教員が生徒を殴ることもありましたが、その逆もありました。彼らが先生を殴る時には、それなりの理由があるのが私にもわかりました。殴られる先生は、一方的に生徒を悪いと決めつけ、懲らしめようとするのです。生徒たちはそれを感じ取って反発していました

「これは中途半端な気持ちで教員になってはいけない。すぐ見透かされる

こうして中学生にして教職を将来の職業から外した私ですが、何の因果か教員になりました。そして驚くことに、不良中学校で得た知見が役に立ちました。そう、生徒の行動にはすべて理由がある、というものです。

どんなに不良行為を働いていようと、教師が「なんてこった」と頭を抱えたくなることをしていようと、彼らはアホではないし獣でもありません。必ず背景があり、本人の思考があります。たとえ本人が言語化できなかったとしても。

そのあたり、30年前の日本の生徒も現代のインドネシアの生徒も、全く同じだと感じました。

その他、教員として私が見て感じたことは、インドネシア・ジャカルタ発信のクロスカルチャー・メディア「+62」で掲載していただいています。長らく更新していませんでしたが、また続編を書くことになりましたので、よかったらご覧ください。(おもしろいよっ!)
→ロンボク島の先生奮闘記「ぼくせん」はこちらから

毎日とっても楽しかった教員の仕事ですが、教員としての仕事をしっかりしたからこそ「辞める」と決意しました。

大好きな教職を辞めたわけ

学校をやめる決心をした理由を端的にいうと、「学校よりも私の身を役立てられるところがある」と感じたからです。

生徒の実情

私は授業も好きでしたが、生徒たちの考えを聞くのが大好きでした。

「最近、何が一番うれしかった?」「どんなゲームしてるの?」「これのどんなところが面白いの?」「こんな話を聞いてるけど、実際のところどうなの?」「あなたはどう思う?」など様々な対話をします。

一人ひとりの得意なことや価値観を知るのが楽しく、また彼らの資質を授業で活かせたときなどは本当に嬉しかったです。もっと生徒たちの力を引き出せるんじゃないか、学校の先生たちも巻き込めるんじゃないか…と、もともと学びたいと思っていたコーチングも、この時期に学びました。

生徒たちといろいろな話をしていると、いざというときに話してくれるんですね、自分の本音を。

「◯◯先生の△△という言葉に傷ついて、学校に行きたくないです」とか。「親は自分のことを見ていないと思います(だから家に帰らない。それで友達の家で遅くまで起きているから、朝起きられなくて遅刻ばかりする)」とか。

どんなにヘラヘラしてる生徒も、自分の人生を何も考えていないとか悩みがないとか、そんな子は一人も見当たりませんでした。むしろ、「進む道がわからない」「方向はなんとなくわかるけど、どうしたらいいのかわからない」「いい手本がいない」「自分には何もできない気がする」のです。(大人もそうですよね)

もっと単純・ピュアでいられた幼児期・学童期はとっくに過ぎ去り、もうハイティーンです。自意識もどんどんでてきます。でもその自意識のやり場がないんですよね。それで、授業をサボったり、食堂の裏でタバコを吸ったり、夜遊びして学校に通報されたりします。

これで家庭が安心の場だったらいいのです。
親には口悪く当たったり、生意気な態度をとったり、逆に何もやる気がないように見えたりするでしょう。そうしながら、めいいっぱい悩めます、葛藤できます。

だけど、家庭がそうでなかったら…。
彼らはそのもどかしさや鬱憤を他者に向けます。もしくは自分を堕落させて表現します。
そしてまた怒られて、他者や自分に八つ当たりして…の悪循環です。

でね、思いました。
10代の子どもたちにとって、安全な場所がいる、と。

彼らにそんな場所がないなら、私が作ろうと思いました。

教員制度の変更

2022年に、非常勤講師の雇用制度の見直しがありました。

非常勤講師として2年以上勤務し、今後も教員として働く者は指導科目と学士を一致させなければならなくなったのです。

日本語を教えるならば、外国語大学の日本語学科か、総合大学の教育学部日本語学科などを卒業し、学士を得ている必要がある、ということ。

いやいや、そんな学士号、持ってませんがな。
私の学士は人間科学で、専攻はスポーツ科学です。

じゃあ、私のように指導科目と学士が不一致の場合はどうするのかーというと、ちゃんと措置がありました。

1.(政府が用意した大学に)学士編入して働きながらオンラインで指導教科に即した学士をとる
2.学士と指導教科が一致するよう、指導教科を変更する

えええーー。私が日本語の教員として働き続ける一番現実的な方法は、私が体育を数コマ指導しながら日本語も指導することでした(学士をもつ教科を含めていれば、複数教科指導することは可能なのだそう)。

高校生相手に体育って…(うちの学校、男子のほうが人数多い)。それも教える側だなんて…むりむりむりーーー。もう何年スポーツらしいスポーツやってないと思ってんのよっ。かといって、日本語学科のある大学へ編入して勉強しなおすのも「ない」わー。

移行期間があるし、今すぐでなくても問題はないようですが…このまま教員を続けていたら、いずれぶち当たる壁になるのは目に見えていました。

「そこまでして日本語の教員を続ける情熱はないな。」
「日本語の勉強や体育の指導準備に時間を費やすなら、別のことに使いたい。」

こんな自分の気持ちが確認できたので、「そろそろ高校教員としての役割は終わりだってことだな」と感じました。

時間とお金の兼ね合い

もう一つ、どうにかならないかな、と思っていたことがありました。

それは、予定外の仕事がけっこう入ってくること。
私は、本来週に12コマ(12時間)、授業をすればよいだけでした。日本なら非常勤講師は職員会議や学校行事には出ないと思いますが、私の勤務校はなんせ公務員のほうが圧倒的に少ないのです。

公務員だけでは学校が回りませんから、非常勤であっても、やれ職員会議、やれ◯◯のイベント、やれブラッシュアップ・セミナー…と何かと駆り出されます。そして、それが2日前ならまだよくて、だいたいが前日の連絡で知らされました。しかも無償、チーン。

誰が悪いわけではないのはわかっています、これは制度の問題です。だけど、このままだとずっと同じ愚痴を何年も言うことになりそう。。私、そろそろ日本へ一時帰国して娘の顔を両親に見せたいんですけど…。

って、我慢しているふうでグチグチ言うだけなのはカッコ悪い。
自分の人生自分で切り開こう、と生徒にもコーチングのお客様にも言ってるのに、示しがつかへんやん。これはあかん、しっかり身をもって示さないと。

学校の先生方には本当によくしていただいたので、そのご恩やら生徒たちのことやらを考えると後ろ髪ひかれる思いです。

が、日本語を教えたり、それに付随する学校の所々の仕事をするために時間を使うより、私はもっと自分の情熱を「これでどうだーっ」とばかりに注げて、自分が活きる仕事に時間や才能や体力気力を使ったほうがこの世のためだっていう結論に達しました。

私は、2023年の11月に校長に、年度末(2024年6月)での辞意を伝えました。素直に、子どもたちのために、より社会的な活動に力をいれたい、できればヤヤサン(非営利組織)をつくりたい、と。

辞める直前まで校長先生以外には黙っておこうとしたら、わりと早い段階で校長先生が周囲の先生にポロリしてしまいました(笑)。他の先生方にも引き止めていただきましたが、やはり気持ちは変わらず。

最後の方の授業はもう、寂しくて寂しくて。

学校も先生方も生徒たちもこの仕事も…大好きだけど、次のステップへ行きます。

長くなったので、今日はここまで。
次回は、じゃあ次のステップって何やねん、を書きますね。

今回も最後まで読んでくれてありがとう。
お互いサマサマ幸セナン♪

(みどり/Midori Rahma Safitri @hijau39)

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