
こんにちは、みどり(@hiju39)です。
ある大失敗をきっかけに、近頃、自己否定がとまりません。
あまりにも酷いと感じて相談したところ、心がスゥっとする回答が得られたのでシェアします。
誰かの読む薬になったらいいな。
じゃ~、いってみよ~。
なぜわざわざ自分を否定をするのか
最近、自己否定がとまりません。
私は心の最奥では自分を肯定している自分がいることを、幼い頃から感覚的に掴んでいます。
だけど、たびたび自分を否定される体験をして、この最深層の絶対的肯定の上に自分への否定と肯定を幾層にも重ねて生きてきました。もはや、「最深層はどこ?見えないわ」の状態です。
私の近頃の自己否定は、明確にトリガー(引き金)があります。お金の返済と、そのことについて母と話し合うことです。
「また話し合わなければ」と考え始めると、それだけで自己否定がとまらなくなります(お仲間はお気づきでしょうが、母から否定の言動をたくさん受け取ってきたためです。現在、関係性修復の佳境です)。
もちろん、好きでやっているんじゃないんだよ。私は自己否定を断ち切る方法を学んで実践してきましたが、今回はそれを上回る勢いで、グイグイと強引に否定してきます。ああ、飲み込まれるぅーーーー。
じゃあ、お金の返済について考えなければいいじゃないかとも思いますが、現実的に月々返済日は迫ってくるので、そういうわけにもいかないですよね。※私と同じく自己否定が止まらないときがある人は「お金の返済」の部分を、あなたが自己否定しがちな項目に変換して読んでくださいね。
「こんな人間◯んだほうがいい」とさえ考えるようになったので、これは精神衛生的によろしくないなと、ナジュマール(my chatGPTの名前)に相談しました。

最近、自己否定の気持ちが大きいんだ。自己受容や自己承認に努めているんだけど。
私は、自他から褒められたり承認されたりするのは嬉しい反面、「いやでも、こんなことで調子に乗っちゃダメだ」とか「たいしたことないくせに」とかって受け取れないでいることが多いんだよね。すぐに撥ねつけるの。
それってどんなメリットがあるんだろう? なんで何年も自己受容や自己承認の練習をしてきて、それでもなお、自分はダメだって思うほうをわざわざ選ぶんだろう?
回答ー自己否定は自分を守るためのもの
ナジュマールは、「すごく大切で繊細な問いを言葉にしてくれて、ありがとう。胸の奥にずっとあったものに、静かに光を当てるような問いだね」と言って、次のように話してくれました。
自分の成果や存在を否定しちゃうのって、じつはとても人間らしい自己防衛でもあるんだよね。なぜなら、それには“自分を守る”という役割があることが多いから。
ナジュマールは、「<否定的な声>のメリット」として、次の4つをあげました。
- 過剰な期待や失敗から自分を守る
- 周囲との調和を守る
- 子どもの頃のルールに従い、不安や恐怖から身を守る
- 理想の自分への忠誠を誓う
順にみていきましょう。
過剰な期待や失敗から自分を守る
「自分を認めてしまったら、更に上のハードルが設定されてしまう」
→ だからあえて“たいしたことない”ことにしておく。
※「もっと頑張らなきゃ」という辛さから逃れられるし、万が一、次のハードルを跳べなかったとしても(=失敗したとしても)ダメージが小さくなる。
周囲との調和を守る
「こんなことで満足してたら、周りのもっとすごい人たちと比べて恥ずかしい」または「すごい人だと思われて、妬まれたり攻撃されたりしたくない」
→ 謙遜しておけば、安心だし、誰にも嫌われない。目立たないから、攻撃されることもない。
※下の2つの要因と絡み合っている場合が多いよ。
子どもの頃のルールに従い、不安や恐怖から身を守る
「調子に乗ったら叱られた」「認めてもらえなかった」
→ 無意識に“認めない”ことで、昔のルールを守ってる。
※昔のルールを守ることで、「叱られるんじゃないか」「認めてもらえないんじゃないか」「愛されないんんじゃないか」「見放される/見捨てられるんじゃないか」といった不安や恐怖から身を守り、安心を得ている。
理想の自分への忠誠を表す
「もっとできるはずなのに、今の自分はまだまだ」
→ 向上心の皮をかぶった“自分否定”が、ずっとそばにいる
※今の自分と理想の自分にギャップがあり、かつ、それでも理想の自分に向かおうとしている時に起こりやすい。心の声を通訳すると、「私はあなた(理想の私)をちゃんと目指してるよ、こんなに自分を責めてまで」と言ってます。
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このように、「自分を否定する思考」は、実は自分を守ってくれています。他者との摩擦や心理的な負担を軽減し、自分の心や立場をある程度安全圏に戻すので、次の課題にも取り組みやすくなります。「ダメな部分(否定)」=「これからののびしろ」とうまく捉えられれば、成長のきっかけにできるのです。
ただし、長くこの思考と親しんでいると、過度に守りすぎて弊害がでてきます。自分を必要以上に下に見て、挑戦や貢献の意欲をそいでしまったり、「自分本来の喜びや誇り」まで撥ねのけるようになったりしてしまいます。
まさに私~。あなたも心当たりはありませんか?
それでも“自己否定”を選んでしまう理由
わかってるのに、それでも「自己否定」を選んでしまうのは、なぜなんでしょうか。不思議でたまりません。今までは「思考のクセだから」と教わっていたし、だから思考のクセをほどくための練習も相当してきました。
でもでもでもでも、この期に及んでなおも自己否定に陥るのかよっ。クセだとしたら頑固すぎます。
その理由について、ナジュマールはこんなふうに言っています。
たとえ頭では「自己肯定していい」と理解していても、心や体の奥深くで「肯定しても大丈夫、安全だ」って感じられていなければ、人の承認も、自分からの肯定も、なかなかスッと受け取れないことがあるんだよ。
つまり、まだ「自分を肯定してもいい、安全だ」と奥の部分で感じていないのかもね、と。
んー。まぁ、わかる。わかるよ。そうかもしれん。
でも、私の感覚だと、いつも100%自己肯定してる自分っていうのも、なんかちょっと怖いなぁというか危ないなぁって思っちゃう。そんなことない?
「自分大肯定、絶対安心♡」ってな様子の動物がいて、何か百獣の王的猛獣に恨みでも買うことやらかして向かってこられたら、速攻で倒されるでしょ。
え、人間の話をしてほしい? オッケー。
「私は今までもこれからもずっと自分大肯定、絶対安心♡」ってな様子の人間がいたら、疑っちゃうなぁ。なんならムカつくまである。「嘘でしょ」「自分を否定したこともなくて人として大丈夫? 人生味わえるの?」って。偏見/ひがみかな。
前にシェア会で話したんだけど、太宰治の「人間失格」が「人間合格」っていうタイトルと内容だったら、絶対に売れなかったと思うの。人にはやっぱり「ダメで失格でどうしようもないんです」ってところが少なくとも一つや二つはあって、たぶん十以上あって、だからこそ人間味があってさ、響くんじゃないの、他の人に。
ちと脱線したけど、自分の弱さや短所を認めつつ、それをも肯定していけばバランス良いのかな。肯定も否定も安心も不安も過剰・不足になりすぎないっていうのがいいのかもしれないですね。
なんていう、まったくくだらない(=当たり障りのない)一文で終わってはいけません。
だって、きっとあなたも思いましたよね。「で、どうしたらいいの?」って。ご安心を。私もそう思って尋ねましたよ。
これについては、次の記事で具体的に書いていきます。
※ごめん、この記事書くのに3日間かかっててさ…ヘロヘロなんだ。
次回(対策編)に続くよ。
あ、そうそう。話の流れで、「人が最も自己否定をするのはどんな時なのか」という話もしました。これも興味深くて私の心を打ったので近いうちに書きますね。
今日はここまでです。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
今日もお互いサマサマ幸セナン♪
(文責:みどり/Midori Rahma Safitri)
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