インドネシアの高校で日本語教師になって3ヶ月

今年の7月から地元の観光専門高校でホテル科と観光科の1年生に選択外国語(日本語)の授業を担当している。

コロナの影響でずっとオンラインでの授業だったが、9月末から段階的に対面授業を試しているところで、昨日は対面授業の二回目。

こんなかんじで、生徒たちはとにかくかわいい。

しかし、授業は簡単ではない。

私の教える高校は8割が男の子だからか、授業中に寝るわ食うわでメチャクチャだ(笑)。やけど、学級崩壊ということはなく、元気いっぱい。

今日の授業でも、質問すると「できねぇよ、わかんねぇ」と顔を横に向けてまともに答えないヤンチャ坊主がいた。

ゆっくり彼のためにはじめから説明して(そしてそれは他の生徒のためにもなる)、まず一回やってもらう。やっぱりわかんねぇらしい。

「今から他の子にも類題を解いてもらうから、よく聞いててね。次はできるから」と別の生徒たちにも次々と解いてもらう。他の子達もみんな汗かき間違えながら授業は進む。もう一度はじめのヤンチャ坊主の番がまわってきた。類題を出す。口から日本語らしきものが出てくる。お、わかってんじゃん!と思った瞬間に少し間違えて本人も気づいた。でもたった10分ほどですごい進歩だ。

「おー、さっきできなかったのができるようになったやん。ちゃんと理解できてるよ。すごい。いいね!」

やるなって顔で親指を立てて彼に突き出したころには、彼はもう横を向いていた。でも、きっと視界の端で見えたはずだ。私が漫画家だったら、彼の口の端が上がったことに一コマ割く。

生徒たちは素直な子が多くて、できたことをしっかり褒めるとみんな喜ぶ。

バッチリ目をそらさずに話すと受けてたってくれるし、こちらの誠意を示せば示すほど応えてくれるのがよくわかる。彼らが目を反らしていたとしても心がオープンになりつつあるのはちゃんとわかるものだ。

目の前の彼らの態度や発した言葉だけがすべてじゃない。もっと彼らの奥にある思いがある。それを観る。聴く。感じる。開く。

まずはそこからだ。私が受け入れ体勢を作って示すのが先。ちゃんと受け入れてもらえると思ったら、彼らは心開いて話す。目も耳も体も開く。このあとにやっと日本語の授業がある。

高校の授業って難しいな。私は家庭教師の経験があるが、1対1で教えるのと1対多数で教えるのとは違う。1対1のほうがやりやすい。高校で働きはじめてからずっとそんなふうに思ってた。

でもさ、多数に教えるからといって、多数の「塊」に向かって授業をするんじゃないんだなと少しコツがわかってきた。

1対1のやりとりをみんなが見てる。見ながらみんなで学ぶ。それの繰り返し。繰り返しだけど同じものは一つもないから、たくさん学べる。だって一人ひとり違う人間だからね。そして時々全体にフィードバックしたりされたりする。

そんな一人ひとりとの通い合いは私にも素晴らしい財産になる。

「今日も1人、正面から向かえた」

こんな喜びが教師の仕事にあるなんて予想していなかった。

私がしっかり観る。聴く。感じる。開く。そこから彼らが開くのを待つ。信じる。

何かに似ているなぁと思ったら、子育てと一緒なんだ!

子育てにしろ教職にしろ、その人の人生や成長に関わらせてもらえるのは本当に天職だなぁと思う。ワクワク楽しいなんてことはない。重い球でバーンと魂の勝負をさせてもらってる感がある。私と子や生徒に勝った負けたはないけど、真剣勝負だ。オエーーーッだ、オエーーーッ(きれいな表現でなくてすみませんね)。こっち(私)が磨いてないといけない。楽ではない。でもやめられない。

今日も授業がないのに学校だ。山のようにレポートがある。別のクラスの中間テストの採点もしなきゃ。

さ、今日も暑くなりそう。水筒の準備でもするかな。

(文・Midori Rahma Safitri)

↓日本語教師になった経緯はこちら↓

midoriiro.net/japanese20200710

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