あなたの人生はどこから始まりますか。私は人見知りから始まったよ

こんにちは、みどり(@hiju39)です。

ライフコーチとして活動していくために、今一度自分の人生の棚卸しをしています。
人生の中で心が大きく動いたことを書き出しながら、自分の失敗やそこからの成長などを見ています。

何かが誰かに響くかもしれないので、ブログにも書き留めることにしました。
人の人生は面白いので、ぜひご覧ください。

それでは、みどりの人生超初期の思い出から始めましょう。
じゃ~、いってみよ~。

極度の人見知りだった、保育園時代

私をよく知る人にこれからする話をすると、必ず「は?誰のことw?」とツッコまれるのですが、私は母親や保育園の先生方が引くほどの人見知りでした。

人見知りすぎて、保育園に入園してから一ヶ月間、教室に入れなかったんだって。知らない子がたくさんいる中に入るのは無理!!と「あやめ組」の教室の入り口にある靴箱の前に座ったまま、泣き通して一日を終えていたそう。

靴箱の前で泣きながら暇を持て余した私は、あやめ組の靴箱に貼ってあるシールを読みこんで、誰とも顔を合わせていないくせにクラス全員分の名前を覚えました。はい、保育園の先生、大仰天w

人見知りに拍車がかかった出来事

入園後一ヶ月で、ようやくぼちぼち教室に入れるようになりました。それと前後して、私は保育園のほかにもう一つ別の場所に通い始めました。

別の場所とは、「ことばの教室」という、言語発達が気になる子どものための教室です。私は言葉の遅れはなかったものの発音が不明瞭で、特に「さしすせそ」が「ちゃちちゅちぇちょ」になっていました。このままだと小学校にあがってから笑われると心配した母が、「ことばの教室」を探してきたのです。

ことばの教室にどれくらい通っていたのか、どんな先生たちがいてほかにどんなお友達がいたのか、何をしていたのか…今となってはほとんど何も覚えてはいません。ことばの教室自体は嫌いではなかったように思います。

だけど、一つ大問題がありました。

それは、ことばの教室に通った後で、みんなより数時間遅れて保育園に入ること。

例えば、みんなが積み木などで遊んでいるときに、私が一人遅れてガラッとドアを開けますよね。すると、ドアに背を向けていた子たちも、みんなが一斉に私を見るのです。

今思えば、一人か二人しか見ていなかったのかもしれません。でも、自分の記憶にあるのは、バッと見られる視線です。恥ずかしさと怖さが混じって体が硬くなる、あのかんじ。

ただでさえ人見知りで教室に入るのが怖いのに、たった一人で遅れてみんなの輪に入らないといけないなんて、難易度高すぎやろ!!

人見知りがなくなったきっかけは?

それから40年ほど人生を重ねて、今の私の人見知り度はかなり緩和しています。特に、人前でのスピーチや初対面の人と1対1で話すのは全く平気。なので、多くの人は私を外向的・社交的な人間だと思っています。

でも私はいまだに内向的で、大勢いる場所に飛び込むのは得意ではありません。人混みは苦手だし、パーティーなどは気を遣って楽しむよりも疲れてしまいます。

それでも「うげぇ」と気後れしても、1分もあればその中へ入っていけるようにはなりました。だから今の私は「内向的だけど人見知りではない」です。

一体何がきっかけで人見知りがなくなっていったんでしょうか?

友達が誘ってくれた

保育園の教室にだんだん入れるようになったのは、「おいでよ」と、みんなの輪に入れてくれる園児や先生のおかげです。

クラスに一人は「ちょっと困っていそうな友達の声(気持ち)を拾って助けてくれる子」がいますよね。そんな友達の力で輪に入れて、だんだん見知らぬ他人と話すことに慣れていきました。完全に他人頼みです。

慣れてくると、少しずつ「知ってる人以外は怖いっ」から「見知らぬ他人と話しても安全だ」へと認識が変わってきました。さらに、この認識は今では「見知らぬ他人と話すのは楽しい。私の知らない世界を見せてくれるから」になっています。変わるもんですね!

役をもらった

もう一つは、人前に出ざるを得ない役割をもらったこと。

保育園の最後で「桃太郎」のお芝居をすることになりました。保護者が観覧する場でナレーターの役をもらいました。

ナレーターは舞台の真ん中でお芝居をするわけではないのですが、舞台の端で与えられた文章を覚えて声に出さなければなりませんでした。私にとっては難しいことでしたが、先生方に支えられて、私はこれを成功させました。

このときね、舞台の端でナレーターをしている自分をもう一人の私が見て拍手してくれたような気がしたんです。

先生がどうしてこの役を私に与えてくれたのか今も謎ですが、この役のおかげで「私は人前でも話せる」と子ども心に大いに自信がつきました。

そのあと小学校・中学校ではずっと学級委員の役をいただきました。学級委員は教室の前に立って、クラスみんなの意見を聞いてまとめる機会が多いですよね。これを9年間やったので、ひたすら慣れさせてもらえました。

人見知り克服の失敗例

失敗例もあるんです。

実は母もものすごく人見知りだったらしくて。母も小学生の頃の担任の先生があまりに人見知りで授業での発言も控えめな母を心配したそうです。その先生は歌が好きな母にみんなの前で歌を披露するように誘い、母はそれに応えて成功。ある種の自己肯定感を得ました。

その記憶が強烈な母は、私も人見知りがなおるように音楽好きな私を「ヤマ○の音楽教室」に入れました。が、私は何度も嫌がって逃げた(脱走した)ため、すぐ辞めたんです。これ、保育園の時の話ね。

なぜ私も母も学校での発表はうまくいったのに、私の音楽教室通いはダメだったのでしょうか。

私の推測ですが、学校での発表はかなり学校に慣れたころに自分をよく知る先生が自分の適正をみて「やってみたら?」と役を与えてくださっています。いつもの場所で少し新しいことに挑戦させてもらった、つまり、安全性が担保されているんですね。それに比べると、音楽教室は新しい場所を与え直された形になるので、心理的な抵抗をうんだのではないかと思います。

以上、私の人見知りは、安全を感じる場所で繰り返しお誘いを受け、それに応じていくうちに「初見の他人を知ること・人と話すこと」への自己認識がポジティブな方向へ更新されて、消えていきました。

人見知り経験が生きたこと

大人になってから、意外な場面で元・人見知りの知見が大いに役立つことになりました。

子育てです。

娘が「私のコピーか?」というくらい、幼稚園や小学校の前で棒立ちになりました。登園・登校をしぶりまくり、村で大切な親戚づきあい・近所づきあいもしたがりません。

娘は一人だけ肌の色が違うことから、歩いているだけで見られたりヒソヒソ話をされたりします。これが人を警戒する原因になっていると思っています。

私とはまた事情が異なるけれど、見られて一瞬にして品定めされる感覚は嫌ですよね。

わかる、わかるよーーー。
ママもそうだったもん。

人見知りの先輩を経験したおかげで、私は「安全第一」を徹底し、娘に登園・登校や人付き合いなどを無理強いすることがありませんでした。娘になんと言えばいいのかも、自ずと見えました。

結果、娘は「人見知り=悪いこと」と思うことなく、自分の気持ちを大切にしながら自分なりの人間関係の構築法を模索しています。娘の気持ちがよく理解できたことは、私が人見知りでよかったことの一つかなと思っています。

そんなわけで、私の人生初期の思い出は人見知り。ほかにも人見知りエピソードは母からたくさん聞いたけど、だいたいどれも「泣いて手に負えない」という代物です。わはは、もっといい思い出をもっていたかったけど、しょうがないよね~。

人見知りで人生をスタートさせたみどりちゃん。
このあとどうなっていくのでしょうか。
続きを楽しみに待ってくださいね。

今回も最後まで読んでくれてありがとう。
お互いサマサマ幸セナン♪

(みどり @hijau39)

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